ポーランド2 アウシュビッツ強制収容所Ⅰ [ポーランド2018]
おはようございます。あまり眠れずとにかく眠たいです。
今日は朝早くからアウシュビッツツアー。
英語ガイドだと50ユーロくらいで申し込めますが、Kさんがここはどうしても日本語!と仰るので、少人数日本語ガイドの91ユーロ(約12000円)にしました。ここはお金で解決です!
ホテルからは、前日大きな手ごたえを感じたUBERで500円くらいで駅近くのマテイキ広場まで行きました。本当にUBERは便利!
朝のマテイキ広場は、観光客のツアー集合に多く使われ観光客がたくさんいました。
予定より10分くらい早く日本語ペラペラのお姉さんがきて、私達ともう1組日本人女性2名組の計4名をバンに乗せ、アウシュビッツに向けて1時間20分の車の旅が始まりました。
道中でガイドさんが、「今日はラッキーです。アウシュビッツのガイドは有名な中谷さんです!」と言ってきた際、Kさんと興奮しました!
中西さんのことは事前に調べていたのでよく分かりますが、唯一のアジア人であるアウシュビッツ公認ガイドの中谷剛さんが案内してくれるなんて!これは幸先のよいスタートです。
アウシュビッツには8時過ぎに到着しましたが、朝早いのにもう結構な人でした。入場規制もあるくらいなので、朝早くに来て越したことはないです。
ここで中谷さんと合流し、2.5時間のツアーのはじまりはじまり!
中谷さんは、まずは有名な門ではなく、いきなりガス室へ案内してくれました。
ガス室は怖くて写真撮れませんでしたが、破壊されていないので中にも入れました。
上の写真はその内部の図です。
そして次にガス室隣にある、ルドルフ・へスが戦後に公開処刑になった絞首台へ。
この場所から収容所外にある実際にルドルフファミリーが住んでいた綺麗な住宅も見えました。
ルドルフへスの告白にある、世間は自分を大量虐殺者としてしか見なく、自分もまた心を持つ一人の人間だということは理解しないだろう、という発言は有名ですが、どんな思いで1947年のその日を迎えたのでしょうか。
絞首台の後は、有刺鉄線を通って収容所内部に入ります。
23年前はとにかく寒くて凍えそうでしたが、やはり夏で天気がよいと印象はかなり変わります。
内部では何棟かに入って展示物を中谷さんに説明してもらいます。
左がチクロンBの缶で、そのとなりはユダヤ人のスカーフ
義手・義足におびただしい靴です。
なんでこんなに義手・義足があるんだろう、と前回も思いましたが、確かに当時は第1次世界大戦の後で負傷した人も多く、ある意味今以上に義足や義手が多かったんだろうと思います。
アウシュビッツでは囚人はユダヤ人だけでなく、政治犯罪者、ポーランド人、ソ連等の捕虜やエホバもいて、印で識別をしたようです。
左はポーランド人の犠牲者の写真で、右は同じく収容対象となっていたロマ人(ジプシー)の少女達を人体実験に利用した写真です、と中谷さんが教えてくれました。
これは収容所に運ばれるときに各人が持ってきた鞄。到着時にすべて没収されるのですが、多くの収容者は名前等を鞄に残したようです。それはいつか戻ってくるのを願った気持ちも込められているでしょうが、ここに展示されているということは、持ち主の手には戻らなかったということで、やるせない気持ちになります。
こちらは収容された人たちの写真。
左の子供は靴を履いていないことから、これは夏ごろ撮られた写真でできるだけ多くのものを身にまとってやってきたのではないか、と中谷さんが言っていました。
他にもおびただしい人間の髪や、立ち牢やコルベ神父が餓死刑にあった部屋等いくつか紹介してもらいました。このあたりは写真を撮らないようとのことだったので控えましたが、どれも前回の記憶も鮮明に残っているものでした。
これは収容者の部屋です。
この記憶も鮮明にあり、1段に数人寝ていたようですが、前回は後に行くビルケナウよりはまだこちらのほうがまし、と思った記憶があります。
これは有名な死の壁です。
中谷さんは歩きながらもいろいろ話をしてくれましたが、かなりテーマが壮大で、現代史や教育、政治、経済問題まで発展していました。
そして中谷さんのガイドコースでは、最後に有名な門でフィニッシュです。
ここまで1時間半くらいかかりましたが、ここからビルケナウに移動して続きがあります。
今日は朝早くからアウシュビッツツアー。
英語ガイドだと50ユーロくらいで申し込めますが、Kさんがここはどうしても日本語!と仰るので、少人数日本語ガイドの91ユーロ(約12000円)にしました。ここはお金で解決です!
ホテルからは、前日大きな手ごたえを感じたUBERで500円くらいで駅近くのマテイキ広場まで行きました。本当にUBERは便利!
朝のマテイキ広場は、観光客のツアー集合に多く使われ観光客がたくさんいました。
予定より10分くらい早く日本語ペラペラのお姉さんがきて、私達ともう1組日本人女性2名組の計4名をバンに乗せ、アウシュビッツに向けて1時間20分の車の旅が始まりました。
道中でガイドさんが、「今日はラッキーです。アウシュビッツのガイドは有名な中谷さんです!」と言ってきた際、Kさんと興奮しました!
中西さんのことは事前に調べていたのでよく分かりますが、唯一のアジア人であるアウシュビッツ公認ガイドの中谷剛さんが案内してくれるなんて!これは幸先のよいスタートです。
アウシュビッツには8時過ぎに到着しましたが、朝早いのにもう結構な人でした。入場規制もあるくらいなので、朝早くに来て越したことはないです。
ここで中谷さんと合流し、2.5時間のツアーのはじまりはじまり!
中谷さんは、まずは有名な門ではなく、いきなりガス室へ案内してくれました。
ガス室は怖くて写真撮れませんでしたが、破壊されていないので中にも入れました。
上の写真はその内部の図です。
そして次にガス室隣にある、ルドルフ・へスが戦後に公開処刑になった絞首台へ。
この場所から収容所外にある実際にルドルフファミリーが住んでいた綺麗な住宅も見えました。
ルドルフへスの告白にある、世間は自分を大量虐殺者としてしか見なく、自分もまた心を持つ一人の人間だということは理解しないだろう、という発言は有名ですが、どんな思いで1947年のその日を迎えたのでしょうか。
絞首台の後は、有刺鉄線を通って収容所内部に入ります。
23年前はとにかく寒くて凍えそうでしたが、やはり夏で天気がよいと印象はかなり変わります。
内部では何棟かに入って展示物を中谷さんに説明してもらいます。
左がチクロンBの缶で、そのとなりはユダヤ人のスカーフ
義手・義足におびただしい靴です。
なんでこんなに義手・義足があるんだろう、と前回も思いましたが、確かに当時は第1次世界大戦の後で負傷した人も多く、ある意味今以上に義足や義手が多かったんだろうと思います。
アウシュビッツでは囚人はユダヤ人だけでなく、政治犯罪者、ポーランド人、ソ連等の捕虜やエホバもいて、印で識別をしたようです。
左はポーランド人の犠牲者の写真で、右は同じく収容対象となっていたロマ人(ジプシー)の少女達を人体実験に利用した写真です、と中谷さんが教えてくれました。
これは収容所に運ばれるときに各人が持ってきた鞄。到着時にすべて没収されるのですが、多くの収容者は名前等を鞄に残したようです。それはいつか戻ってくるのを願った気持ちも込められているでしょうが、ここに展示されているということは、持ち主の手には戻らなかったということで、やるせない気持ちになります。
こちらは収容された人たちの写真。
左の子供は靴を履いていないことから、これは夏ごろ撮られた写真でできるだけ多くのものを身にまとってやってきたのではないか、と中谷さんが言っていました。
他にもおびただしい人間の髪や、立ち牢やコルベ神父が餓死刑にあった部屋等いくつか紹介してもらいました。このあたりは写真を撮らないようとのことだったので控えましたが、どれも前回の記憶も鮮明に残っているものでした。
これは収容者の部屋です。
この記憶も鮮明にあり、1段に数人寝ていたようですが、前回は後に行くビルケナウよりはまだこちらのほうがまし、と思った記憶があります。
これは有名な死の壁です。
中谷さんは歩きながらもいろいろ話をしてくれましたが、かなりテーマが壮大で、現代史や教育、政治、経済問題まで発展していました。
そして中谷さんのガイドコースでは、最後に有名な門でフィニッシュです。
ここまで1時間半くらいかかりましたが、ここからビルケナウに移動して続きがあります。
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